当寺は、室町幕府、第十三代将軍、足利義輝公(1536~1565)の長子義高(幼名:乙若丸)が出家されて覚山天誉上人となられ、丹波の国八上城城主・波多野秀治公の保護を受けて創建されたのがはじまりであります。
覚天誉上人の父君義輝公は三好長座の家臣であった松永久秀(1510~1577)の謀反により自害されました。そのとき僅か三歳だった遺児乙若丸さまは、波多野秀治の家臣喜多川嘉応にかくまわれて丹波八上城で養育され、長じては法然ゆかりの念仏道場、京都誓願寺で出家し「天誉覚山」を名乗ります。天誉覚山上人は善誉教山大和尚のもとで十数年の修学修行をおえ、ハ上城下にもどり、秀治の庇膳のもと、天正年間(1573~1593)高城山山中に誓願寺が建立されました。現在でも高城山誓願寺谷に、その遺構をたどることができます。
浄土寺は慶長四年(1599)、篠山城築城に先だって天誉覚山上人の弟子教誉善念大徳が開山となって、浄土寺をお開きになりました。当初浄土寺は徳永村柴大夫の寺屋敷に創建され、その後十王堂山上(現在の境内背後の山)に移転し、寛文十一年(1671)に現在地に遷座したものと伝えます。
その後星霜を重ね、明和4年(1767)、文政6年(1823)と二度の火災にあうなど不幸な歴史も乗り越え、幾多の変遷をたどりながら念仏弘通の道場として現在に至っております。